タイの政治

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タイの政治混乱――その歴史的位置――

ここ数年、タイの政治は混乱を極めている。2008年11月には、黄色の服を着た集団が、バンコク国際空港を占拠し、翌2009年4月は、赤シャツの集団がASEANサミットの会場になだれ込み、会合を中止に追い込んだ。2010年3月からは、赤シャツの集団が政府に国会解散を求めてバンコクの繁華街を2ヶ月あまり占拠し、最後は軍によって制圧されて、多数の死者や怪我人が出た。

以前のタイは、クーデタがあっても政治体制は変わらず、在タイ日本人ビジネスマンが、「自民党内の派閥争いのようなもの」と形容するほどであった。そうした政治の安定性が、海外から、とりわけ日本からの投資を引きつけてきた面が、確かにある。そのタイが「どうなってしまったの?」と、タイをよく知る人ほど思うに違いない。

タイのこうした「今」、を考えるには、「今」をいくら見ていてもだめである。これまでタイがどのような政治の歩みをしてきたのかを知らなければ、「今」と「これから」を考えることはできない。そのような視点から「今」のタイ情勢を見るならば、それがタイの民主主義発展の一段階にあるということが見えてくる。今の「混迷」は、タイの政治がさらに一歩前に進み出るための「産みの苦しみ」なのだ。

対立の構図と展開

現在の政治対立は、タクシン(元首相支持)派と反タクシン派の対立であるとされる(表1)。タクシン派は反独裁民主主義統一戦線(UDD)という運動体が中心となり、シンボルカラーは赤である。議会内ではタイ貢献党(プアタイ党)という野党(議席数では最大)がある。一方の反タクシン派は、民主主義人民連合(PAD)という運動体が中心となり、黄色をシンボルカラーとしている。議会内では、与党の民主党とその連立政権を支持している。

この2派の対立軸となっているタクシンは、2001年に首相就任し、タイ政治の中心に躍り出た。任期満了後の2005年総選挙でも大勝したが、2006年に入ると反タクシンの運動が拡大したため、タクシンは国民の信を問うとして解散、総選挙に打って出た。ところが主要野党は選挙をボイコットし、裁判所が選挙に無効の決定を下して政治が宙に浮く。そうした中、9月に軍部がクーデタを挙行して、タクシン政権は崩壊したのである。クーデタ政権は1997年憲法に代えて2007年憲法を制定・公布し、同時にタクシンの罪状を暴こうとした。しかし1年余り後に選挙をしてみると、またもやタクシン派の政党(人民の力党)が勝って政権に就いた。PADは再び街頭に繰り出し、空港が封鎖される中、憲法裁判所は人民の力党の解党判決を出した。人民の力党はタイ貢献党と名前を変え政権継続を図ったが、組閣工作の最中にタクシン派の一部が反タクシン側に寝返ったため、現在の民主党アピシット政権が生まれた。この多数派工作には、軍のてこ入れがあったとされる。タクシン派にすれば、この政権交代は軍の圧力によってなされたものであり、容認できるものではない。そこで今度はUDDが街頭に出た。

階層差だけでは説明できない

タクシン派と反タクシン派は、それぞれ支持層の違いを反映したものだ、と日本でも報道されている。確かにタクシン派には下層の支持が厚く、反タクシン派には都市中間層の支持がある。しかしタイではこうした対立が起きる以前から、階層による大きな格差が存在した(表2)。突如「階層」が現れたわけではないし、下層と中間層がそれぞれの違いを意識していなかったわけでもない。これまでと違うのは、対立が「階層の」対立として意識されていることにある。したがって、解かねばならない問題は、「なぜ階層という形で政治的対立が起きるようになったのか」ということなのである。

どこの国でも階層差はあり、階層による利害の違いもあり、また党派による政治対立もある。国民みなの意見が一致している国などどこにもない。それでも、現状を不満ながらも「受け入れる」状況があるから政治が安定するのだが、最近のタイはいつ対立が終わるのか先行きが見えない。選挙をやるとタクシン派が勝ち、反タクシン派は街頭に出て、司法や軍も入って、政権が崩壊する。それでもまた選挙をやらない訳にはいかないから、またこのサイクルが始まる。なぜ社会階層による支持の違いが選挙で「収まらない」のか。これがもうひとつ解かねばならぬ疑問である。なおタイの選挙は、政府から独立の選挙管理委員会が監督しており、選挙違反はあるものの、選挙自体の公正性が疑問視されているわけではない。

タイの民主主義発展史

さてこうした疑問を念頭に置いたうえで、タイの「今」を考えるため、戦後タイの民主主義がどのように発展してきたのかをごく大雑把ではあるが見てみよう。タイは1973年までほぼ軍部による独裁政治が続いていた。1945年から73年までの28年間のうち、14年ほどは政党の設立が禁止されていたのである。28年間に行われた総選挙は、たったの6回。軍のリーダーが首相になり、軍と警察という暴力装置を後ろ盾にした政治をおこなっていた。

権威主義的な政治に公然と反旗を翻したのは、学生たちであった。経済成長に乗って急速にその数を増やした学生達は、1972年頃から明確かつ集団的に政治的主張をするようになる。そして1973年10月14日、政府による不正や不当逮捕に抗議して王宮前広場周辺を埋め尽くした学生や市民に対して軍が発砲し、多くの死者を出した(10月14日事件)。国王の介入を経て首相は亡命し、政治は民政に移管される。しかしまもなく軍は勢力を盛り返し、右翼の活動も活発化して、地方では農民運動のリーダー達が次々に暗殺された。そして1976年10月、軍は学生の集会を武力で鎮圧し(10月6日事件)、この後タイは再び強権的な政治に戻る。

弾圧を逃れた学生や農民活動家は森に逃げてタイ共産党に合流し、武力による反政府闘争を続けた。軍は力による統治の限界に気づき、むしろ農村の貧困削減により反政府勢力の力をそぐ方針をとった。1980年から首相になったプレームは、そうした軍の方針転換を主導した人である。かつて共産党のゲリラ活動がもっとも激しかった東北地方で陸軍を指揮し、その後陸軍司令官となった。

プレームは1988年まで首相の座に留まる。この時期のタイ政治は、「半分の民主主義」と形容される。なぜ「半分」か。まずプレームの時代には政党活動が認められ、選挙が行われた。ところが連立与党は、政党人ではない(当然選挙にも出ていない)プレームを首相に推してきたのである。閣僚には与党の有力議員が就くが、プレームは国家運営、とりわけ経済運営の要所を占める官僚を重用して政策運営をおこなった。また国軍と国王の支持がプレームを支えていた。「半分の民主主義」は、「半分しか」民主化されていないとも言えるが、1973年以前の状況を基準にすれば「半分だけ」民主化が進んだということでもある。それを行ったのがプレームという軍出身の首相であった。つまり軍主導による、民主化の段階である。

プレームは1988年に政界を引退し、国王への助言を任とする枢密院議員となった(後に枢密院議長)。一方、国政はいよいよ「全面の」民主主義へと一歩駒を進める。つまり選挙第1党の党首が首相を務める政治が始まったのである。しかしこの政権では閣僚による汚職が蔓延し、1991年、軍が「腐敗した政治を正す」という名目を掲げてクーデタをおこなった。本当の理由は国防相人事への不満であったが、この名目はある程度国民の支持を得た。ところがまもなく陸軍司令官自身が首相に就くと、政府批判が巻き上がる。1992年5月に反政府の集会は急速にふくれあがった。この時の集会参加者は、「携帯電話の群衆」などと呼ばれた。携帯電話を使って、仲間を呼んだり、情報を広めたりしたからである。当時、携帯電話はまだ高価だったから、それを持っているのは都市中間層以上であった。つまり都市中間層が軍による政府にノーを突きつけたというのである。このときも軍の発砲により多くの集会参加者が犠牲になった(暗黒の5月事件)。軍と市民の対立は、またしても国王の介入で終わり、首相が辞任した。

政治改革とは何だったのか

軍による政治に戻ることは許されないが、政党政治家による政治にも問題がある。タイの政治制度は根本的に改められねばならない。かくして1990年代は「政治改革」の時代となる。この「改革」は1997年憲法に集大成されるから、その規定から改革のねらいを推し量れよう。そこにはいかにして政治家の利己的行為を抑えるかという工夫がちりばめられている。選挙制度についてみると、選挙違反に対して厳しい罰則を設け、立候補には大卒以上という学歴要件を付ける。選挙区を小選挙区制に変えたのも、政治家が自己の利益により小政党を作って政治のキャスティングボードを握ることを抑制するためでもあった。

一方、下院議員を監視する制度も作られた。下院のお目付役たる上院議員は政党への所属を認めず、選挙運動にもきつい縛りをかけた。国会や内閣から独立した機関(選管や人権委員会など)を設置して政治家への監視機能を与えた。選挙区から選ばれた議員は当選後の入閣が実質的に不可能になるようにした。

改革を発議し主導したのは、「ニュー・エリート」とでも呼べる人々であった。政治改革の方向性を立てる委員会の長には、国立大学医学部の教授で長年民衆への医療サービス普及に力を注いできたプラウェート医師が指名された。具体的な憲法の素案を作ったのはチュラロンコン大学で公法を教えるボーウォンサックであった。憲法案は政治家ではない専門家(法学者、政治学者)と地方から選出された市民により構成される起草議会で作られた。地方で開かれた憲法案作りの公聴会には、地方の官僚や教員、知識人、NGO、ビジネスマンなどが参加して発言した。彼等は政治家でも、軍人でも、権威主義的な官僚でもない。しかし学歴高く、タイ社会の問題に関心深く、1970年代の学生運動を経験した者も少なくない。1980年代、水面下に沈んでいた彼等のエネルギーが、1990年代、「市民社会イデオロギー」に導かれて表面に現れたのである。

このように1990年代の政治改革は、いわば政治家性悪説(選挙区からの政治家は票を金で買い集めて選ばれてくるので、当選後は蓄財に励むようになる)を前提に、その行動を規制するための制度を「ニュー・エリート」の主導において作り出したものと言える。その裏には、次のようなロジックが隠れている。「地方の民衆は、選挙で金をばらまく候補者に投票するから、選挙では(何らかの規制をかけない限り)まともな政治家は出てこない」。一種の「愚民感」をそこに見ることができよう。

タクシンとは何だったのか

1997年憲法による最初の総選挙は2001年に行われ、タクシン率いるタイラックタイ党が議席の半数を占める圧勝をした。タクシンは元警察官僚で、自分の起こしたコンピューターや通信ビジネスが成功して、巨万の冨を持っていた。それを使って有力政治家を自党に取り込むと同時に、農村住民や都市下層をターゲットとした具体的政策を掲げて選挙をおこなった。たとえば30バーツ(約100円)で、医療が受けられる健康保険、低利で借用できる村ごとの100万バーツ基金、農家負債の返済猶予、小事業者向け融資などを始めると約束した。一種のマニフェスト選挙をしたわけだ。そして政権を握ると、これらの公約を次々に実施した。農村住民にとってこれらの政策の恩恵は大きい。このほかに、タクシンは国家予算の予備費を膨らませ、地方住民の要望に応えるための事業を自分の判断でできるようにした。タクシンに頼めば道や橋ができると、人々は思うようになった。

タクシン政権が4年の任期を満了して迎えた2005年の選挙で、3分の2議席を占める大勝利を収めたのは、有権者がタクシンの政策に高い評価を与えた証拠である。小選挙区制のもとで、人々は「タクシン首相」を選ぶべく投票したのである。農村住民にとって、もはや一票は数百バーツの売り物ではなく、自分らの裨益する政策を(それをおこなう政府を)選ぶ方法となった。タクシンは票の数こそ力であると理解し、自分の資源や国家の資源を動員して、票を集めたのだった。いわばタクシンは、「数の政治の再構成」をしたのである。

良き人による政治-中間層の主張

議会で圧倒的多数を占めたタクシンは、次第に傲慢になり、人の批判を聞かなくなるし、自分や取り巻きの都合の良いように政策を決める。地方民衆の歓待を受ける姿は、国王をないがしろにしているように見える。そもそも中間層は、自由な言論を抑えられるということが我慢ならない。自由な競争こそ至極のルールであるから、汚職やネポティズムは許せない。また上層に属する人々にとって、自分と王族との近さは誇りでもある。中間層の不満は急速に広がった。ところが選挙では人数の少ない彼等に勝ち目はない。1990年代、政治の中心にいたはずの中間層が、いつの間にか政治的な力を失っていた。

そこで彼等は国王の権威を借りて(シンボルカラーの黄色)運動の正当性を主張し、司法と軍という権力を引き出すためにも、激しい街頭行動をおこなった。しかし倒す相手は曲がりなりにも民主的かつ自由な選挙で多数を得た政党による政権である。PADは自分たちの目指す民主主義の姿を説明しなくてはならない。

2008年、PADがタクシン派政権打倒の集会を続ける中、そのリーダー達は「新しい政治」というスローガンを掲げた。それを要約したのが表3である。それによれば、現在の選挙では良からぬ人々が選ばれてくる。よい政治とは、良い人(タイ語で「コン・ディー」)が国を治める政治であって、そのためには選挙で選ばれた政治家以外の代表が参加する政治にしなくてはならない。そして「一例」と言いつつも、選挙区選出議員は3割、それ以外を7割にするという数字を出した。

ではどうやって「コン・ディー」を見つけるのか。PADは職業集団から代表を選べばよいと考えたようで、弁護士、医師、教員、労働者、農民、学生、小売商、屋台・行商人などがそれぞれの協会を作って、そこから代表を出すという。確かにこうすれば、普通の選挙に出られないような人も国会議員になれるかもしれない。

数の政治――下層の主張

UDD集会場の路上に貼られた顔写真。
中央上がプレーム枢密院議長。

一方、赤シャツ集団の主張は、「議会解散せよ」(選挙をしろ)の一点であり、PADの「良き人による政治」と対照をなす。誰がこの国を治めるべきかは、国民に決めさせるべきであり、その方法は選挙でしかありえない。UDDは「解散せよ」と言う代わりに、「権力を民衆に返せ」とも主張している。

UDDは運動の正当性を自らの民衆性に求めた。そして自分たちを「プライ」という少々古くさい言葉で呼ぶようになった。プライとは19世紀の半ばまであった身分制において、王族や貴族に労役の義務を負う平民のことである。当然そのような身分はとうの昔になくなっているのだが、あえてこの言葉を使うことで、自分たちの集合的アイデンティティを表現したのである。

リーダー達は集合行動やり方にも民衆的な要素を意識的に入れ込む。運動参加者から集めた血を首相府やアピシット首相邸、民主党本部前に撒いて、民衆の中にある呪術や精霊など超自然的現象への信仰に訴えた。赤シャツの集会場の舞台では、東北地方のモーラムという、旅芸人による謡い語りが披露されていた。UDDの集会場には、旧タイ共産党の帽子などが売られている。UDDのリーダー層に元共産党員が入っていることはよく知られているが、「コミュニスト」といえば「悪人」というイメージが作られてきたタイ社会で、この復権は興味深い。おそらく共産党の「虐げられた民衆の味方」イメージが肯定的に見られているのだろう。

一方、自分らの相手を「アムマート」というこれまた古くさい言葉で表現した。アムマートとは、官位の高い文官を表す言葉で、いわば「エリート」のことである。PADが「コン・ディー」と表現したものを、「アムマート」と言い換えて攻撃しているわけである。そこで「良き人」の典型、プレームを狙い撃ちにした。2006年のクーデタ直後にもUDDはプレームがクーデタの背後にいるとして、その私邸にデモをかけており、その後もプレーム批判の手を緩めていない。写真は集会場の路上に貼られた政治リーダーの顔写真で、中央上がプレームである。集会参加者がプレーム等の顔を踏みつけて歩くようにしてあるわけだ。

自覚的階層の登場

このように、現在のタイでは所属階層が自覚され、対立しているのである。自らが何であるかという集合的アイデンティティをもち、相手もひとつの集合に括ることで、その間の対立を意識する。はじめに述べたように、階層差の存在は今に始まったことではない。なぜそれが集合的に意識されるようになったのか。

まず、タクシンが受益者を特定した政策をおこなったことが始まりであった。小選挙区制とも相まって、農村住民や都市下層民は、選挙で政権を(政策を)選ぶ投票ができるようになり、自分らの圧倒的な数が政治的な力になることを知った。逆に都市中間層は、選挙における無力を自覚した。選挙の意味が所属階層によって対照的となったのだった。

二つ目に、集合行動自体が参加者の間に「われわれ意識」を高めることになる。黄色と赤というシンボルカラーをはじめ、PADは手のひらの形、UDDは足の裏の形をした小道具でカスタネットのような音をたてて集会を盛り上げた。集会に参加すれば、弁士から伝えられる情報をみなが共有するから、それぞれの支持者は同じ言葉、論理で話をするようになる。

三つ目に、彼我を分ける視座(フレーミング)の提供である。UDDのリーダーが、プライとアムマートという言葉を使ったのは、その好例である。これによって「我々」と「彼等」をそれぞれひとくくりにし、かつその違いを際だたせることに成功した。しかもこれらの言葉は、いつも社会的に見下されているという下層の人々の感覚にピタリとはまったから、力を持ったのである。

最後に、両派とも独自メディアを持っていることの意味が大きい。それぞれのリーダーはマスメディア・ビジネスに精通しており、衛星放送を使った独自の宣伝放送局を立ち上げた。またこの10年ほどで族生した「コミュニティ・ラジオ」という小規模放送局が、政治宣伝を流している。こうしてPAD支持者はPADの宣伝放送を、UDDの支持者はUDDの宣伝放送を、それぞれ視聴することで、支持者で情報の共有ができ、逆に相手の主張を耳にする必要はなくなっている。しかも衛星放送を使うことで、こうした亀裂が全国に広がった。

ルールの対立

ここまで述べてくれば、対立しているのが単にタクシンに対する支持・不支持の問題ではないことが理解されよう。対立に決着をつけるべきルール自体が対立しているのだ。赤シャツ集団は、選挙で決めようと提案しているのに対して、黄色はそうしたやり方では問題は解決しない、と言っている。ゲームのルールについて合意がないから、なかなか勝負がつかない。

この対立は、あるべき民主主義像をめぐる対立と言い換えることができる。PADは「良き人」による協議によって政治を進めるのがより民主的と考える。選挙のように投票行動だけで政治に参加するしくみは、結局、票を金で買う人々(つまり票を金で売る人々)に政治をゆだねることになり、よい政治は期待できない。こうした発想は、アソシエーションの代表による協議を通して公共圏の意思決定をするという「市民社会論」に類似している。いわば「質の政治」の主張である。

これに対してUDDは選挙こそが民衆の政治参加の場、手段であると主張する。下層民衆は確かに貧しく、教育程度も低いかも知れないが、それなりに考えているのだから、中間層や上層と同等の参加の権利を与えるべきだ。こうした下層でも政治への意思表出ができるのは(公共圏に参加できるのは)、選挙なのである。こちらは「数の政治」と言うことができよう。

ルールの基礎は憲法で規定されているのだが、PADは2007年憲法を支持し、UDDは1997年憲法の復活を求めている。1997年憲法が「ニュー・エリート」の政治活動によって作られたことからすれば、これは奇妙に思えるかも知れない。しかし1997年憲法は、タクシンのような強力な政治家を産む制度を含んでいた。だから1997年憲法がクーデタ政権によって無効にされたとき、その制定に努力した活動家達が、何らの抵抗もしなかったのである。2007年憲法では、小選挙区制は中選挙区制に戻され、上院議員の約半分は推薦による選考に切り替えられ、選挙管理委員会などの独立機関も政党政治家の影響ができるだけ入らないよう(司法の代表者の発言権が大きくなるよう)に変えられた。1997年憲法の制定を進めた人たちは、自分たちに都合良く機能する限りでそれを愛していたに過ぎない。タクシン側が1997年憲法を回復せよと言うのも同じことで、それが自分にとって都合がよい「民主主義」だからである。

タイ民主主義の今、これから

こうした今の状況を、先に振り返ったタイ民主主義の展開につなげて見るとどうなるだろうか。タイははじめ「軍部による強権的な政治」があった。それが1973年から76年の間に挑戦を受け、激しい対立があった。その後1988年まで、「軍による上からの民主化」過程があった。軍の重しがとれんとしたとき、またもや混乱が生じた。そして1992年から10年近く政治改革の時代になる。それは「良き人」が監督者となって政治を進める制度作りの過程であった。ところができた制度に乗って登場したタクシンは、「数による政治」を再構成してしまった。それによって農村や都市の下層大衆は、政治に影響力をもつことを自覚した。政治への参加、という点に限ってみれば、軍から政治家へ、さらに「ニュー・エリート」、一般大衆へと、その範囲や主役が拡大してきたのである。そして今、「良き人による政治」と「数の政治」が衝突している。これまでも政治制度が変わる時には、激しい衝突が起きていた。今回もそうした移行期を我々は目撃しているのである(図1)。

歴史の流れを押し戻すことは難しい。中間層が政治を動かし、下層は選挙で票を売るだけという政治構造に戻ることがよいはずもない。下層民衆自身も変化してきている。筆者が東北タイのコンケン県農村に住み込みで調査していた1989年当時、小学校を卒業後、さらに上の学校に進む村の子供は例外的であった。ところが2000年に同じ村で調査したところ、ほとんどの農家子弟が中学より上の高校や高等専門学校に通っているのである。2005年にこの村の中学校で生徒に将来の夢を聞いたら、「医者」と答えたのが何人もいた。昔は、せいぜい「兵士」か「警察官」だった。農家の子弟でも、農村にずっと留まっている者はむしろ少数派で、多くは都会での就業経験を持つ。彼等は都市の生活を経験し、都市中間層の生活を垣間見ている。一方の中間層も、農村や都市下層が金だけで動員されたのではないこと、赤シャツの主張は意外と多くの賛同者がいることに気づいてきている。

またPADの言うような「良き人の政治」を具体化するのは難しい。2006年クーデタの後、その評価を巡ってタイのNGOや社会活動家は割れて、相互に激しく批判し合った。社会に奉仕する「良き人」だったはずの人々も、どうやら「間違っていた」らしいのである。さらにUDDは意図的に「良き人」を攻撃してきた。もはやだれもが認める「良き人」を探すのは難しくなっている。そう考えると、結局は「選挙」によって雌雄を決するというルールを受け入れざるをえないであろう。あれほど選挙を見下していたPADも、昨年政党を作り、選挙参加の準備を始めた。

ゲームのルールさえ合意されてしまえば、じつは政策内容ではそれほど大きな対立はない。タクシン以後の政党は、どの政党もマニフェストを作るようになり、大票田たる下層を意識した政策を実施するようになった。アピシット政権ですら、タクシン派政権時代の政策を多く引き継いでいる。少し頭を冷やして考えれば、タクシン派も反タクシン派も、やっている政策にはあまり違いがない。今、農村の人々がタクシンに熱を上げているのは、タクシンが初めて農村住民をターゲットとしたばらまきをしたからであって、いわば一種の「元祖」ブランド効果なのである。「元祖」が本当にウマイかどうか、そのうち人々は冷静に判断するようになるだろう。そうなれば、いくらタクシンとその取り巻きが笛を吹いても、民衆は踊らなくなる。タクシン自身の、あるいはタクシンを巡る利害対立で、タイの政治全体が振り回されることもなくなるであろう。

その時、タイは選挙で、あまり代わり映えのしない政権や政策を選ぶ「普通の」民主主義国家になるのであろう。それは退屈ではあっても、安定した政治(政権ではなく)の実現である。しかし今回、政府がタクシン派の街頭行動を力でねじ伏せたことで、この後どういうルールでもって人々が競い合うのか、何らの合意も得られなかった。タイ政治安定化への道のりは、その結果かなり険しいものとなったといえよう。


タイ総選挙、タクシン派が第一党の勢いも過半数困難

2019.3.24 23:20国際アジア

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開票結果を見て歓喜するタイ貢献党の支持者ら=24日、バンコクのタイ貢献党本部前(AP)その他の写真を見る(1/6枚)

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 【バンコク=吉村英輝】タイの民政復帰に向けた総選挙(下院、定数500)の投開票が24日、行われた。現地メディアによると、軍の影響力維持を狙った新選挙制度で、いずれの政党も単独過半数を獲得できなかったもよう。反軍政の首相指名も困難になった。選挙結果を受けた連立の動きが予想される。

 公共放送タイPBSが開票率75%として伝えた非公式速報によると、地方の農民など貧困層が基盤のタクシン元首相派の「タイ貢献党」が161議席とトップ。軍の政治への影響力維持を狙う親軍政の「国民国家の力党」が127議席、タクシン派から寝返った「タイ誇り党」が78議席、反軍政を掲げる革新系の「新未来党」が55議席、反タクシン派の「民主党」が25議席など。選挙管理委員会は同日夜にも、中間集計結果を発表する。

 国民国家の力党は、プラユット氏を首相候補にしている。首相の選出には、軍政が事実上任命する上院(1期目定数250)も加わり行われるため、プラユット氏続投の可能性は高まっている。

 一方、タイ貢献党が第一党になれば、政権に一定の影響力を持つことになる。

タイ総選挙、大接戦 軍政継続の可能性高まる

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    【バンコク=小谷洋司】24日に投開票されたタイ総選挙(下院選、定数500)は、軍事政権の事実上の継続を狙う親軍政党と、対立するタクシン元首相派の前与党が得票数で拮抗する大接戦となった。現地メディアによると、開票率が90%を超えても両党が第1党を巡って激しく争っている。親軍政側が想定以上に勢力を伸ばしており、プラユット暫定首相の続投の可能性が出てきた。

    タイ総選挙で投票する(右から)プラユット暫定首相、民主党のアピシット元首相、貢献党のスダラット元保健相、新未来党のタナトーン党首(24日、バンコク)

    開票率92%段階での選挙管理委員会の集計によると、全国の得票数は親軍政の「国民国家の力党」が約750万票、タクシン派のタイ貢献党が704万票。貢献党は地盤の東北部、北部で強さを示したが、前回2011年総選挙に比べ勢力を大きく失うとみられる。

    政府系の放送局のMCOTによると、両党は140議席前後を獲得する見通しだ。

    タイ国会は上院と下院の二院制。選挙結果の確定後、上下両院の全750人で首相指名選挙を実施し、過半数を得た候補者が次期首相に就く。軍政下で発効した新憲法は上院(定数250)を軍政による任命制に変更したため、親軍政政党は下院の126議席を押さえれば上院と合わせてプラユット氏を選任できる。

    ただ予算案や法案の通過には下院での過半数の確保が必要。このため選挙後、親軍政勢力とタクシン派の双方が連立工作を繰り広げる見通しだ。

    14年のクーデターを挟んで約8年ぶりとなった総選挙で1票を投じようと、投票が始まった午前8時から投票所に長い行列ができた。

    朝からバンコクの投票所に並んだ露天商のブンチュー・マライさん(60)は「(軍政の)独裁を食い止めるために投票に来た」と話した。主婦のジンダ・ラーサワンさん(76)は国民国家の力党に投票し「私は軍を信頼している」と話した。

    立候補者のボードを見る親子連れ(24日、バンコク)=三村幸作撮影

    タイ総選挙で投票する有権者(24日、バンコク)=三村幸作撮影

    国民国家の力党の支持を受けて続投をめざすプラユット暫定首相は24日午前、票を投じた。「すべてのタイ人に投票してほしい。それが自らの手で国の未来を選ぶための正しい道だ」と語った。貢献党の首相候補、スダラット元保健相は投票後「国民は民主主義が花開き、国に繁栄と幸福が訪れることを求めている」と述べた。

    タイの王室事務局は23日夜「国の平和と秩序を守るためには、善良な人々による統治を支持する必要がある」とした故プミポン前国王の言葉をテレビで伝え、国民に熟慮のうえでの投票を促した。前国王の長男のワチラロンコン国王が発言を周知するよう指示した。

    はじめに

    2019年3月24日、タイでは選挙が行われようとしている。

    今回の選挙もまた、クーデタ、軍政、新憲法制定から新たな選挙へ、そして民主主義の失敗から次のクーデタへと繰り返してきた歴史の一部なのだろうか。タイでは、選挙はしょせん茶番なのか。

    現象だけをみると、タイ政治の歴史は同じことの繰り返しのように見える。しかし実際には、これまであった幾多の選挙、民主政治、そしてクーデタや軍政、憲法の数々も、タイの民主化の歴史のそれぞれの局面にあって、独自の意味を持っていた。きたる今回の選挙は、タイ政治史のなかでどのような意義を持つのだろうか。この問いに答えるには、2014年のクーデタと現在起きている政治危機と軍事体制を理解することから始めなければならない。その作業を経てはじめて、今回の選挙が過去20年間のタイ政治史の中でもつ意義を理解できるだろう。

    2013年11月30日に民主記念塔に集まった反タクシン派のデモ隊

    不安定な政治と2006年から続く危機

    歴史の観点から見ると、タイの民主化プロセスとは、政治アクター間の権力闘争だったといえよう。すなわち、軍、王党派(monarchists)と一般の人々の三者の闘争である(Thongchai 2008)。1932年に絶対王政が幕を閉じた後も王党派が権力奪回を試みたために、新体制は15年あまりにわたり安定しなかった。1940年代の半ばからは国軍が有力な政治勢力として台頭し、1973年に反軍政の人民蜂起に直面するまで、その地位にとどまった。73年の人民蜂起は、その後一般の人々による大衆民主主義(popular
    democracy)の隆盛をもたらす契機であったと同時に、王党派が復権を果たした歴史的なターニングポイントでもあった。他方で、国軍の政治力は1973年を契機に衰えた。1980年代に選挙とクーデタが何度か続いたのち、1992年に新たな反軍政運動が起き、国軍はついに「兵舎に戻った」のだった。

    1992年から登場したのが、「王党派民主主義」(royal democracy)である。それは一見、議会制民主主義の体裁をとるが、実際には選挙によって選ばれた権力が王党派の政治的な影響と積極的な介入の下に置かれていた(McCargo 2005, Thongchai 2019)。この王党派民主主義による勢力均衡を脅かしたのが、空前の支持を誇り、2001年と2004年の選挙で地滑り的勝利を収めたタクシン・チンナワットだった。2006年のクーデタは、王党派が大衆民主主義を抑制して自らの政治的優位を守るために起こしたものだった。彼らは、国軍を再び政治の場に引き戻すことで目的を達成した。

    しかしながら、2006年クーデタ後の軍事政権は短く、王党派の優位を安定させることができなかった。王党派への不満と大衆民主主義への要求は依然として強固だった。その一方で、国軍の政治権力は拡大し、タイの政治危機は長引いた。王室は危機の間も至高の存在であり続けたが、その政治的影響力は、徐々にプーミポン国王にのみ従う国軍への依存を強めていったのである。他方、社会の様々なグループが声をあげ、政府内に影響力を持つことを求めるようになったなかで、大衆民主主義を否定することは不可能であった。グローバルコミュニティのなかで、とりわけ経済関係においてタイが認められるためにも、大衆民主主義が必要なのは明らかだった。

    王党派民主主義の危機の鍵は、2000年代半ばから続いたプーミポン国王の健康問題にあった。その比類なき威徳によって、プーミポン国王は王党派民主主義の要でありつづけた。王位継承は、通常の立憲君主制のもとでは非政治的な出来事であろう。しかし王党派民主主義にとっては、重大な政治的影響をもたらす問題となった。2014年のクーデタは、プーミポン国王の晩年における新たな王党派デモクラシー擁護の試みだったと言えよう。そしてそれは成功したのである。

    2014年以降の軍事政権

    2014年に成立した軍事政権は、タイの歴史上最も苛烈で強力な体制のひとつである。その抑圧の手法は迅速で、効果的で、強硬で、時に荒々しくさえある。軍事政権は徹底的に政治活動を廃絶し、表現の自由、とりわけ王室に関する表現を厳しく制限した。国際社会からのあらゆる反対運動や非難、制裁にもかかわらず、軍政は王党派と国軍エリートの安定を脅かす大衆民主主義を根絶やしにした。2016年10月、プーミポン国王が逝去し王位継承がつつがなく執り行われ、移行期の安定を維持するという任務は達成された。

    それにもかかわらず、2014年以降プラユット・チャンオーチャー陸軍大将率いる軍事政権は、王党派の支配を安定させるだけにとどまらなかった。ウィーラユット・カンチューチャットとプライジャック・コンキラットは、現在の軍事政権の課題を「埋め込まれた国軍と階層的資本主義」という表現で描写する。彼らは、政権がしたことを以下のように簡潔にまとめている。

    政治に関して、軍事政権が過去とは違う方法でその権力を埋め込んだ様子を示そう。彼らはパワーシェアリングによる統治を追求したのではない......内閣を、議会を、そして国有企業すらも国軍化したのだ。新憲法は、民選勢力に対抗する国軍と伝統的エリートの力を制度化するように設計されたのである。

    また経済面では、プラユット政権は中華系タイ人による大企業グループとパートナーシップを組み、大企業が中小企業に対する「兄貴分」として振る舞うことができるプラットフォームを築いた。そこには地場企業の成長を支えるのではなく、競争的な市場を固定的なヒエラルキーに変えようという、大企業の集団的な試みが反映されている(Veerayooth and Prajak 2018, 279)。  

    軍事政権は、民政復帰後も国軍の影響を保障するため、新憲法や幾多の法律を施行した。例えば、上院は国軍のコントロール下に置かれるため、民選政府は国軍の指令に従わざるを得ない。軍事政権が成したことは、単に王党派のためだけでなく、長期にわたり国軍が隠然と支配を続けるためのものといえよう。王党派と大衆民主主義は、互いに争ったあげく、結果的に衛兵主義(武力を背景とした国軍の政治力行使:訳者注)を甘受せざるを得なくなるのだろうか。

    3月24日選挙の意義

    今回2019年3月24日に実施される選挙は、以下のような政治的状況のもとで行われようとしている。すなわち、①プーミポン国王のように人気があるわけでも、尊敬を集めるわけでもない新しい君主、②密かに進む一般の人々の間の対立、③ふたたび支配の座に就くことを熱望する国軍、の三つである。

    王党派は、国軍への過度の依存はできないことを知っている。彼らは国軍と取引するために「人々」、あるいは大衆支持が必要なのだ。その一方で、大衆民主主義は王制による支配にとっていまひとつの脅威となっている。プーミポンがいなければ王室の威徳は不安定なものであり、それゆえに王党派優位の現状はこれ以上持ちこたえられないかもしれない。

    プーミポン国王の時代、国軍は常に彼らが「王の兵士」であることを主張してきた。はたして、彼らは国王らしからぬ振る舞いで知られる現在の国王に対しても同様に忠誠を誓うのだろうか。国軍の急速な台頭、とりわけ国家と社会へ浸透した経緯は、彼らが最高の権力を視野に入れつつあることをうかがわせる。彼らは、長期にわたって居座るためにここまでやってきたのであって、単に王党派民主主義の番人に留まるか、ましてや選挙後に「兵舎に戻る」ためではない。

    当初、人々は社会の安定や秩序の回復をもたらしたクーデタを支持した。しかし、ここ数年経済が減速し、軍事政権は恥知らずにも多くの点で見当外れだという状態になるにつれ、人々と軍事権威主義との軋轢は増していった。一般の人々の代表者は政党や政治家の他にいないが、彼らの意見や利益が必ずしも代弁されるわけではない。

    プーミポン国王の時代は、王党派の優位の下で三つの政治勢力の力関係が安定するのが政治の定常状態であった。マクロの視点から見れば、来る選挙は王党派という要が不在となり、国軍が1992年以降最も力を蓄えた状況下で行われる、最初の重要な政治行動である。それは、三つの政治勢力の間の新たな勢力関係ないし新たな定常状態を構築する初めての大きな試みとなるだろう。今回の選挙は、唯一でも決定的なものでもないが、我々に権力関係の変化を示し、将来起こりうるシナリオを示唆するものとなろう。

    今回の選挙とそれに関係するすべてのこと、すなわち法律、選挙行動とその結果は、こうした歴史の文脈の中で観察することではじめて理解できるだろう。

    2月8日、タクシン元首相系の国家維持党がワチラロンコン国王の姉に当たるウボンラット王女の首相候補擁立を突如として打ち出したことから、総選挙を前にしたタイの政治情勢は一気に流動化するかにみえた。同日深夜に「王女擁立は不適切」との国王声明が明らかになったことから事態は沈静化に向かったようにはみえるが、その直後からバンコクではクーデターの噂が流れるなど、王女擁立劇の余波が当分は収まりそうにない。いや、タイ政治の今後に微妙な影響を与える可能性すら考えられそうだ。

    写真:AFP/アフロ

     これまで繰り返されてきた《クーデター ⇒ 国会停止・憲法廃止 ⇒ 立法議会
    ⇒ 暫定憲法 ⇒ 新憲法発布 ⇒ 総選挙 ⇒ 民政移管》というサイクルに従うなら、クーデターから1年前後の軍政の後に総選挙を経て民政移管されることが通例となっていただけに、今回のように5年に近い暫定期間は確かに異例なまでに長期ではある。

     とはいうものの、王女擁立劇を除くなら、総選挙を前にした軍政当局、事実上の軍政延長を支持する政党、それに軍政に反対する政党といった3者の動きは、基本的には"既視感"に溢れたものだ。

     だが2014年のクーデターに及ぶに至った社会の動き、暫定期間がかくも長期化した背景を考えると、ここに示した政治サイクルが今後とも予定調和的に機能するようにも思えない。やはり今回の総選挙は、わが国メディアの常套句でもある「軍政延長か、民主化か」とか「民主主義の後退」などの"情緒的視点"では捉えられない問題を孕んでいるように思える。

    「国王を元首とする民主主義」

     1980年代初頭から現在までの40年弱の間、タイ語で「パティワット(革命)」と呼ばれるクーデターは5回(1981年、85年、91年、2006年、14年)に及んでいる。単純計算で約8年に1回の頻度になるが、いずれも「現政権によって『国王を元首とする民主主義』が危機に晒されている」を決起に際しての大義名分に掲げてきた。

     5回のクーデターのうち80年代の2回は失敗し、1991年、2006年、2014年の3回は成功し"所期の目的"を果たした。成否の分岐点は決起勢力の国軍内外に対する影響力もさることながら、やはり王国としてのタイの根幹である「国王を元首とする民主主義」の最終的拠り所である国王が「決起の趣意」を"嘉納"したか否かにあったように思う。

     1981年と85年の2回のクーデターを頓挫させることで、プレム政権(当時)は「国王を元首とする民主主義」を現実政治に忠実に反映させ、8年に及んだ長期政権を維持し社会の長期安定をもたらした。社会の安定が外資を呼び込み、80年代末から90年代前半までの高度経済成長に結びつく。ところが皮肉なことに、経済成長が従来からの政治文化に変化をもたらすことになったのだ。

     1991年のチャーチャーイ政権、2006年のタクシン政権、2016年のインラック政権――クーデターによって追放された政権における政治姿勢の共通項を敢えて挙げるなら経済建設の効率化を目指した社会構造の改革であり、経済発展によって有権者意識の変化がもたらされたといえるだろう。有権者がモノを言うようになったのだ。1票の力に目覚めたというべきかもしれない。そのことが旧来からタイ社会の根幹をリードしてきた上層社会に危機感をもたらしたのである。

     かつてタイの政治学者の1人は、上層社会をABCM複合体と表現した。A(王室)・B(官界)・C(財閥)・M(国軍)である。いわばABCM複合体こそ「国王を元首とする民主主義」を下支えしてきたということになる。

     以上を言い換えるなら、「国王を元首とする民主主義」に抵触する可能性があったからこそ、チャーチャーイ、タクシン、インラックの3人の首相は政権を失ったのではなかったか。ならば「国王を元首とする民主主義」は経済発展と背反するのか。誤解を恐れずに言うなら、2014年に成立して以来のプラユット暫定政権で経済政策の司令塔を務めるソムキット副首相の振る舞いが、「国王を元首とする民主主義」の下でも経済発展が可能であることを示しているように思える。つまり両者は必ずしも相反するものではないということだ。

     因みに同副首相は、チャーチャーイ政権で首相の私的ブレーン(「ピサヌローク邸グループ」)の中核として経済政策に民間活力を大胆に導入し、タクシン政権では「タクシノミクス」と呼ばれるタイ経済政策の策定・推進者でもあった。同政策がもたらした経済成長によってタクシン首相に対して内外から高い評価が生まれたことは既に知られたところであるが、じつは2006年のクーデターで発足したソンティ暫定政権でも、ソムキットの経済政策責任者としての政権入りが持ち出されたことがある。

    首相選任システム

     国王がクーデターを裁可した瞬間、クーデターに決起した軍人集団には正式に国権の全権が付与され、その下に暫定政権が組織される。クーデターという軍事行動に訴えた非合法軍人集団が合法的国家機関に変質するわけだ。

     2014年のクーデターを例にとるなら、プミポン国王が裁可した段階で当時のプラユット陸軍司令官をトップとするクーデター集団は「NPKC(国家治安維持評議会)」として国政の最高機関たる地位を獲得した。現在のプラユット暫定政権を支えているのは国権の最高権力機構たるNPKCである。つまりプラユット暫定首相の権力の源泉は自らが務めるNPKC議長のポストということになる。ここで忘れてならないのは、総選挙を経て民政移管が行われ新しい政権が発足するまで、NKPCは権能を維持しているということだ。

     クーデター成功から民政移管までの期間の最大の政治課題は新憲法の制定だが、最も重要な問題が首相の就任要件と首班指名権である。

     国会に議席を持たずとも首相就任が可能なら、現役軍人が制服のままで政権を掌握できる。憲法が軍政を保障することになるが、さすがに「国王を元首とする民主主義」には抵触するだろう。そこで首相は総選挙を経た下院議員であるべきか。非下院議員でも就任を可とするかという問題が起こってくる。

     下院議員に限定された場合、軍人の就任は極めて困難となる。それというのも国軍指導者はドブ板選挙が苦手であり、手練手管に長けた政治家からするなら制服を脱いだ元軍人政治家の影響力を殺ぐことは赤子の手をひねるほどに容易いからである。事実、制服を脱いで首相になった3人の陸軍大将――クリアンサック(1977年~80年)、スチンダー(1992年)、チャワリット(1996年~97年)――は共に不本意な形で政権を手放さざるをえなかった。跳梁跋扈する政党・政治家に足元を掬われてしまったからだ。

     残る重要課題が国会構成である。タイでは政権の命運を左右する首班指名、予算決議と内閣不信任決議の3件は上院(勅選)と下院(総選挙・政党)による両院合同議会で決せられる。一般的には上下両院は2:3の議席比で構成されてきた。勅選とはいえ上院議員はクーデターを成功させた軍政当局が選任を担当することから、制服を脱いだ国軍幹部は下院の3分の1程度の支持を集めれば首相に選ばれ、安定的な政権運営が可能となる。

     2017年4月に公布・施行された現行憲法を例に見るなら、上院250人、下院500人で構成される。上院議員は勅選だが、250人のうちの50人は中央選管が、200人はNPKCが選任する。当然のように中央選管もNPKCの下に置かれているわけだから、250人がNKPCの意向に逆らう投票行動を取ることは考え難い。

     一方、下院の500議席は小選挙区選出の350議席と、比例代表の150議席とに分かれる。現行憲法と選挙法に拠れば比例議席は小選挙区における政党の獲得票数に単純に反映されないことから、小選挙区での勝利は必ずしも下院での勝利に直結するわけではない。

     要するに軍政当局は総選挙後の国会において、すでに手中に収めている250票の基礎票に加え、下院で130票ほどを集めれば上下両院合同議会の過半数を制し、プラユット暫定首相を民政移管後の新たな首相として送り出すことができるわけである。

     かりにタクシン元首相系のタイ貢献党が有利な選挙戦を展開し下院過半数を獲得したとしても、上院の250議席がネックとなって政権獲得は事実上不可能となる。一方、早々とプラユット暫定首相支持を打ち出した国民国家の力党(軍政当局のダミー政党)にとっての目標は130議席超になり、"勝利のハードル"はさほどは高くない。

    タイ政党の特質

     総選挙を経て軍政当局の思惑通りにプラユット首相が誕生したとしても、安定的な政権運営が約束されたわけではない。その背景にはタイにおける政党の特質がある。

     2月11日に中央選管から今回の総選挙に36政党が参加することが明らかにされたが、タイ貢献党、民主党、国民国家の力党、国家維持党、民族発展党、新未来党、国家発展党、タイ公民党、新民主主義党、新経済党、サイアム発展党、タイ民主社会党など主な政党の政党名からも類推できるように、一般的に政党は政治信条や政策の実現を第一義的に求めるものではなく、有態にいうなら政権入りを最大の目的としている。

     これがタイの政党の第1の特質である。かくてタイ貢献党はタクシン元首相の右腕であったスダラット女史を、国民国家の力党はプラユット暫定首相を、民主党は党首のアピシット元首相を首相候補として掲げ選挙戦を戦うことになる。国家維持党がウボンラット王女を首相候補として担ぎ出したのも、そのためである。

     第2の特質は基本的には地域政党の性格が強く、全国政党にまで拡大し難い。歴史が最も古い民主党にしても南タイとバンコクのインテリ層の支持はあるものの、大票田の東北タイや北タイに浸透しない。いわば下院での単独過半数獲得は至難ということになる。そこで必然的に連立政権にならざるをえないわけだが、当然のように閣僚ポスト配分を巡って連立与党内の鞘当て合戦が起こり、伴食ポストを割り当てられた政党が不満を持し、首相の指導力低下が閣内不一致・政権動揺を来すことになる。安定的政権運営は容易ではない。1990年代に政権交代が連続したのも、ここに大きな要因があった。

     では、なぜタクシン政権(2001年~06年)やインラック政権(2011年~14年)では単独政権が可能だったのか。タクシン陣営が豊富な資金力を背景に中小政党を糾合し全国政党の形を整えたからである。当時の憲法では首相は下院議席を持つことが定められていたことから、クーデターを除いたなら、総選挙の勝敗が政権獲得の唯一の手段だった。

    「赤シャツ」対「黄シャツ」

     総選挙を繰り返しても、唯一の全国政党であるタクシン系政党が過半数を制してしまう。憲法で上院は政権運営に容喙は出来ない。当然のように既得権益層――ABCM複合体のフラストレーションは溜まるばかりだ。

     中国で発生した天安門事件の小型版ともいえる「5月事件」が1992年5月にバンコクの官庁街で発生しているが、流血の惨事を引き起こした責任を問われた国軍は政治的影響力を大幅に後退させた。この事件を機に「人民による憲法起草」を掲げた憲法起草委員会が発足し、97年10月には「最も民主的内容を持つ」と内外から評価された「仏暦2540(1997)年タイ王国憲法」が制定されている。

     同憲法下で総選挙を実施した結果、民主党を軸とする野党勢力や民主派からは「反王制、国家権力の独占と乱用、透明性や倫理を欠いた政権運営」などと批判されたタクシン政権(2001年~06年)が誕生する。タクシン首相が唯一の全国政党を抑え下院過半数を占めていたわけだが、それが2006年のクーデターを招き、やがて国軍の政治的影響力回復を招くのであった。民主化された憲法が文民ながら一強政権を生み出し、その政権を倒すために、総選挙ではなく国軍によるクーデターに頼らざるを得ない。民主主義の皮肉というには、あまりにも皮肉な現象といえる。

    「仏歴2540(1997)年タイ王国憲法」がタクシン一強政権を生んでしまったとの判断からだろう。(1)国民の権利と自由の保護、(2)権力集中の是正と権力乱用の防止、(3)政治の透明性・道徳・倫理の確保、(4)権力チェック機関への高い権能を付与――を盛り込んだ「仏暦2550(2007)年タイ王国憲法」が2007年8月に制定された。

     同憲法の下で総選挙を繰り返すが、やはりタクシン支持政党が下院過半数を制し政権を保持する。そこで上記(1)(2)(3)(4)の機能を与えられた憲法裁判所、国家オンブズマン、そして国家汚職防止取締委員会が憲法に規定され、これらの機関によって首相解職(2008年)や総選挙無効(2014年)が宣言された。だがタクシン支持政党が弱体化するわけでもない。

    総選挙を繰り返してもタクシン支持政党は切り崩せないことから、民主党を先頭とする反タクシン派は国王支持を著す黄色のシャツを纏ってバンコクの街頭に繰り出す。一方のタクシン支持派は赤シャツを身に着け反対行動を展開した。「国王を元首とする民主主義」を掲げ総選挙に拠らずにインラック政権(タクシン系政権)打倒を訴えた。この行動が結果として2014年のインラック政権打倒のクーデターを招くことになる。

     黄シャツ派対赤シャツ派の抗争が激しく展開されていた当時、黄シャツ派を構成するのは王制支持を強くイメージさせる都市の民主党支持層が中心であり、赤シャツ派は経済発展の恩恵に与ることが少ない東北タイの農民層が中心であり、王制に反対するばかりか、一部には共和制を志向する勢力まで含んでいると批判的に報じられることもあった。また民主派対金権派、都市対農村、インテリ層対農民層の対立などと画一的・短絡的に報じられがちでもあったが、変化するタイ社会の実態からして黄対赤という色分けで説明できるほど単純なものではない。

     やはり1980年代末からのタイ社会の変質を前提に置かない限り、黄対赤の対立の本質は理解できないだろう。経済成長による社会構造の変化が有権者の政治意識の変化を醸成し、旧来からのタイ社会を支えてきたABCM複合体の社会的基盤が動揺しはじめたことを想定しないわけにはいかない。対立の本質は国民が今後の国の行く末をABCM複合体に任せたままでいいのか――この一点に収斂するように思える。敢えて図式化するなら、黄シャツ派は今後ともABCM複合体を信任し、赤シャツ派は否定的ということになろうか。ここで注視しておくべきは、タクシン元首相という存在である。いまやタクシンは「反ABCM複合体」という記号と化したと捉えるべきではないか。

    曲がり角に差し掛かった「国王を元首とする民主主義」

     クーデターが何回か繰り返される毎に新たに憲法が制定され、総選挙が実施されてきた。これが2006年以来のタイの政治ではあるが、総選挙に示された民意を素直に判断するなら、反タクシン勢力の劣勢は否めない。新憲法制定や関連法規の改正などを重ねることで法的に赤シャツ派の伸張を抑えようとしてきたが、やはり有権者の投票行動から赤シャツ派が一定の影響力を保持している点は認めざるをえないだろう。

     ここで2005年春以来の国政を図式化すると、《総選挙
    ⇒ 赤シャツ派の勝利と政権掌握 ⇒ 黄シャツ派の反対運動 ⇒ 国内混乱 ⇒ クーデター ⇒ 軍政 ⇒ 新憲法制定 ⇒ 総選挙 ⇒ 赤シャツ派の勝利と政権掌握》という政治過程となる。やはりタイは"不毛のサイクル"を繰り返してきたようにも思える。ここから、ABCM複合体を頂点とする従来型の社会構造が崩れつつあることが読み取れはしないだろうか。

     振り返れば1973年の「学生革命」で危機に陥ったタイを混乱から救ったのは、プミポン国王(当時)の判断であった。以来、前国王は逝去される2017年秋まで、度重なる政治的危機を乗り越え、歴代憲法が掲げる「国王を元首とする民主主義」を護持し国民の一体化を実現させてきた。

     5月初めと定められた戴冠式を経て王国としてのタイの新しい御代が本格的に幕を開ける。ワチラロンコン現国王は前国王が体現した「国王を元首とする民主主義」を踏襲するのか。はたまた新しい形の「国王を元首とする民主主義」に向かって進むのか。3月24日の総選挙と、それに続く新政権成立までの動きが新国王の下での新しい王国の形を方向づけることになるように思える。

     であればこそ今回の新国王の下での最初の総選挙は、これまでの黄対赤の対立抗争の混乱の渦中で繰り返された総選挙とは異なる視点で捉えるべきだろう。

    クーデター後のタイの現状と問題点

    9月13-19日号の英エコノミスト誌は、クーデター後のタイについて、軍事政権は「タイ流の民主主義」導入に努めている、と揶揄しつつ報じています。

     すなわち、タイ軍事政権は、仲間内で議会を構成し、やはり仲間内で成る内閣を樹立し、さらに、選挙委員会に、新憲法の起草者の指名を命じるなど、彼らの言う「真の民主主義」確立に力を入れている。

     バンコク市内も平静が保たれ、多くの市民は、軍の介入でインラック政府と反政府派の対立が終わったことに安堵している。しかし、戒厳令は解除されず、2006年のタクシン追放に関わった軍関係者が返り咲いて、副首相、内務相、外相等の要職に就いている。

     専門家の間では、今回の軍政も前回と同様、すぐ終わるというのが一致した見方であり、体制寄りの各新聞も、軍政の期間を1年と報じている。しかし、将軍たちが選挙による民主主義を廃し、「有徳な人々」による長期支配を目指す可能性もなくはない。

     軍事政権の基盤にあるのは厳格な家父長主義であり、そのため、現在、不法就労、密輸、売春、麻薬取引等、非公式経済の一掃が進められているが、将軍たちはタクシン流の人気取り政策を行う必要も感じている。そのため、財政を破綻させかねないコメ補助金政策は維持、予定されていた消費税の引き上げも凍結し、燃料価格も大幅に引き下げた。さらに、富裕な既得権層の擁護者であるにも拘らず、土地税や相続税の導入も検討している。

     軍事政権は、多くの問題に直面している。輸出不振で経済は成長せず、消費も低迷、投資や観光も下降線を辿っている。バンコクの空港はアジアで唯一、利用客が減っている。安定した電力供給、工業基盤、教育を受けた労働力を擁し、ビジネスに最適とされていたタイだが、その魔力の一部が失われていることは否めない。

     タイが今後どうなるかは、プミポン国王の健康にかかるところが大きい。国王が死去すれば、軍事政権は守りの姿勢に追い込まれ、反自由主義が長引く可能性は十分ある。既に、軍事政権は、国王の言う「十分な経済」という考えに飛びつき、生活水準を測る物差しは所得ではなく、幸福だと言っている。

     将軍たちは迷信にも弱い。亡命したタクシンの動きを粉砕しようとしているが、その進め方には慎重だ。裁判所もコメ補助金問題でインラックに有罪判決を下すのを引き延ばしている。軍事政権に自信がつけば、タクシンやインラックへの対処はもっと厳しくなるだろう。

    一方、人権団体は、イスラム反体制運動が燻るタイ南部で1970年代にあったような軍事法廷が設けられることを恐れている。また、クーデター反対派への対処は概して穏やかだが、一部活動家の消息不明や拷問の話は聞かれる。新憲法の詳細が明らかになれば、今後の方向性が多少見えて来るだろうが、新憲法の中身に関する公開議論はまだない、と報じています。

    * * *

     上記は、クーデター後のタイの現状と問題点を論じています。

     エコノミスト誌も指摘しているように、タイでは、経済が問題です。輸出不振は、欧米や中国の経済情勢が原因で、クーデターのせいではありませんが、クーデターの直接の影響を被っているのは観光と外国からの投資です。クーデターの結果、外国企業は、投資先としてのタイを見限ったわけではありませんが、しばらく投資は控えているようです。

     プラユット率いる暫定内閣の政策で注目されるのは、土地税と相続税の導入です。不動産税と相続税の無いことは、タイのエスタブリッシュメントの特権の象徴でした。これまでも両税の導入は議論されたことはありましたが、富裕層の反対で日の目を見ていません。暫定政権が両税の導入を提案していることは、暫定政権が掲げる「公正な社会の実現」のための一策であり、それはこれまでタクシン派の政党の支持基盤であった低所得者層、特に東北タイなどの農民の不満に対処しようとするものです。

     クーデターの政治的目的は、タクシン派の再起を阻止することです。2006年にタクシン首相を追放したクーデター後に行われた総選挙で、タクシン派が再び過半数を獲得し、何のためのクーデターであったかと言われました。プラユットはその二の舞は何としてでも避けたいと考えています。そのため暫定政権は、1)選挙法の改正、2)汚職、特に選挙での買票の排除、そして、3)低所得層にアピールする政策の実施、を考えており、不動産税、相続税の導入は3)の一つです。

     暫定政権の重要政策の1つは汚職の追放です。近年のタイの政府がらみの汚職は目に余るものがあると言われてきたことを考えれば当然ですが、汚職の追放は前述の通り、選挙対策でもあります。タイの選挙に買票はつきものですが、特にタクシン派は選挙にふんだんにお金を使い、それがタクシン派の勝利につながったと言われています。タクシン派の再起を阻止するためには買票を厳しく取り締まる必要があるのでしょう。

    タイ国王崩御で浮かび上がる、王位継承問題と政情不安

    タイのプミポン・アドゥンヤデート国王が10月13日午後3時52分に崩御し、すでに約2週間が経過した。在位70年は現在の国家元首としては最長で、その国内での絶大的な人気は世界中に広く知られている。2014年10月からバンコク都内シリラート病院での入退院を繰り返し、今年2月から肝臓を悪化、88歳で逝去された。

     70年という長きに渡り、国民からの支持を一身に集める"国父"だったが、その理由は日本でのイメージと、タイでは少し違っているようだ。日本人が国王に抱くイメージといえば、「どんなデモや政変が起きても最後は解決してくれる存在」だが、タイ人に聞くと、国王のイメージとはいわば"聖人君子"。政治家の側面ではなく、常に国民と向き合い、親身になって相談に乗ってくれるような父親のような存在。ちなみにこの国で"父の日"とは、国王の誕生日を指し、盛大に祝われる重要な日の一つ。国王のお祝いと"ついでに"実父も敬うという、日本とは異なった意味合いを持っている。

     国王はどんな僻地にも自ら赴き、現地住民から直接話を聞いて、あらゆる問題を解決していった。映像や写真では、高齢になられてもキヤノン製のカメラを首からぶら下げ、顔中汗びっしょりで、住民と話す様子が収められ、そういった写真が国王の市民を想う象徴として街の至る所に飾られている。

    商業施設エムクオーティエに飾られる国王の写真

    国王として初めて特許を取得、成長したロイヤルプロジェクト

     素晴らしいのは、ただ話を聞くだけではなく、実際に解決するその類まれなる行動力。特にタイの重要産業の農業において、今も多くの農家が恩恵を受けており、1989年に「チャイパタナ水車」を開発したのは有名な話。これはタービンを回し酸素を取り込むことにより、水質を改善する機械であり、1993年2月2日には、国家元首として初めて特許が認められ、現在その日は「発明の日」とされている。2009年には、国王が開発した人工降雨技術がフランスなど欧州10カ国で特許を取得。深刻な干ばつ被害が予測されるときには、タイ9県に「人口降雨センター」を設立するように指示するなど、常に国民を思いやり、必死で問題解決に努めた。

     また、国王が唱えた"農業新説"があり、これは土地を4つに分け、その3割を水源と魚を飼育する池、3割を水田、3割を園芸や果物農園、1割を住居や家畜飼育や道路用地に充てるという理論。そうすることで作物の余剰分の販売が可能になれば、小さなマーケットが生まれ、さらに利益をもたらす銀行やサービスも増え、産業の高度化、潤いのある生活に直結するという長期的な展望を発案した。また、タイ人のなかではあまりにも有名な「充足経済( Sufficiency Economy )」を唱え、いわば"足るを知る"ことの重要性を説き、利他的行動を推し進めた。

     国王が始めたロイヤルプロジェクトも農民の暮らしに大きな影響を与えた。かつてタイ北部は世界最大のアヘンの栽培地域と言われたが、国王は米やとうもろこしなどの農作物を持参し、山岳民族を説得。アヘン栽培を止めさせ、ロイヤルプロジェクトとして認可し、今ではオーガニック野菜やコーヒー、有名なのは果物の「DOI KHAM」というブランドはタイ全土で販売されている。また、食料品だけではなく、バッグやアパレルといったものもロイヤルプロジェクトに認められ、王室認可製品ということでお土産としても好まれるようになった。

    ヨット競技で金メダルを獲得、ジャズの巨匠ともセッション

     さらに農業だけではなく、洪水問題や人材教育といった国を発展させるために尽力した国王はその手腕だけではなく、人間性も高く評価されている。博識でありながら、趣味はジャズや絵を描くこと。サックスが得意で自ら作曲もし、かつてジャズの巨匠ベニー・グッドマンから手ほどきを受けるなど、その実力は推して知るべしだろう。ベニー・グッドマンと一緒にセッションした写真は、若かりし頃の国王の才能が偲ばれる一枚となっている。また、驚くべきは運動にもその才能を発揮され、1967年に行われた東南アジア競技大会でのヨット競技で優勝し、金メダルを獲得。一般の選手たちと一緒に合宿もしていたというから、その謙虚な姿勢も想像される。バドミントンやテニス、射撃などのスポーツも愛されていたという。

    年まで利他を貫き、忙しく公務に携わる姿を見て、国民が尊敬の念を抱かないわけがない。70年の在位期間分、国民から愛され続けたため、その拠り所をなくしてしまった国民のショックたるや相当なものであると想像できる。日本では、政治問題を解決してくれるというイメージが一人歩きしていたが、あくまでタイにおいては、国民を思いやる真の「The People's King」だった。

    後継者問題と今後の政情

     気になるのが、後継者問題及び今後の政情だろう。ご想像の通り、その点の危惧は尽きない。インターネットで「タイ、後継者問題」と検索すれば、怪しい情報までわんさかと出てくるほどだ。後継者はワチラロンコン皇太子に決まっているものの、即位時期においてすでに"すったもんだ"が起きている。軍事政権のプラユット暫定首相は葬儀後、7日から15日以内に王位を継承すると発言。しかし、数時間後にウィサヌ副首相が取り消すという異例の発表があった。同副首相は、国王の葬儀後、最大で172日後に王位を継承するとし、理由として皇太子が今も国王の死を悼む時間を希望していると伝えている。ちなみに皇太子が王位継承を見送ったことで、枢密院議長のプレム氏が暫定摂政に就くことが決まり、国王の職務を代行するという。

     即位時期が後ろ倒しになったのは、財産分与の問題もあると言われている。2016年10月、中国メディアの東方頭条網が報じた内容によると、国王の遺産は約6兆円にも上るというものだった。また、2008年にフォーブスが伝えた額も約3兆8000億円と"世界で最も裕福な王族"と報道された。タイの王室庁は、資産額について具体的な数字を公表していないが、皇太子を含めて兄妹1男3女で財産分与すれば、時間がかかるのも当然だろう(ただし次女のシリントーン王女以外は王族以外と結婚したため、王位の継承権はない)。また、利権争いとなれば、それに紐づいた第3者が介入してくることは想像に難くない。

    即位延期のメリットとは? 成り立つ軍事政権の正当性

     各メディアですでに報道されている通り、皇太子はこれまでの素行から国民の支持を得ているとは言いがたく、人気からみれば3女のシリントーン王女が絶大。ボディガード数名を付けて、一般人も日常的に利用するBTS(高架鉄道)にも乗り、突然ショッピングモールに現れ、キティショップで買い物するなど、庶民と距離を置かない振る舞いと才女ぶりが国民の心を打ち、在りし日の国王の姿を重ねるのは自然なことなのかもしれない。ちなみに王女は前述したような、その素朴な人柄を表す"都市伝説"が尽きず、老若男女問わずタイ人の評価は高まるばかり。

     あくまでもこれは想像の範疇だが、皇太子の即位を遅らせることで、王族に対する国民感情が落ち着くこと、いわばクールダウンの意味合いが感じられる。あまりにも国王の存在が大きすぎたため、即位後すぐに後継者に対するアレルギーが起こらないとも限らない。現段階で国民の心を散り散りにするのはこの国にとって、政治面、治安面においてもマイナスばかり。最大172日後とされているが、国王崩御による心の傷が癒されてきた頃には、国民感情に変化が訪れることも予想され、そのときには日本と同じような立憲君主制が確立されるかもしれない。

     かねてからタイは"特殊な立憲君主制"と言われてきたが、国王の大きな影響力がときに政治にも及ぼすことがあった。最も有名なのは、1992年の300人以上の死者を出したクーデター"暗黒の5月事件"であり、悪化する状況を見かねた国王が対立する指導者たちを王宮に呼び寄せ一喝し沈静化させた一件だ。しかし、本来の立憲君主制では、国王は政治に介入しないが原則。今回、あえて国王の不在期間を置くことで、長い目でみれば国民に"気づき"を与えることができる。そういった意味で時間を置くことは、王位を引き継ぐ皇太子にとっても、現政権にとっても、そして国民にとっても悪くはない選択と言えるだろう。

    民政移管まで残り約1年、国内には問題が山積する

     また、国王が不在ということになれば、危惧される政情不安から治安維持を目的とした軍事政権継続の正当性も成り立つ。実は国王崩御の数日前、バンコクでは10月末に爆破テロが起きる可能性があると発表されていた。すでに数名の南部出身者が逮捕されているが、この国は今もテロ、そして反現政権に反対するタクシン派閥という長年の悩みを抱えている。現政権はクーデター以降、ことあるごとにタクシン派閥を排除してきた経緯があるが、完全に取り除くことはできていない。

     2017年末予定の総選挙も通常通り実施すると現政権は明言している。つまり民政移管まであと約1年。軍事政権はそれまでに国の不穏分子を排除し、国家に安定をもたらすことができるのか。言うまでもなく、課題は山積している。

    独裁色強めるタイ政権
    中国との蜜月の行方は?

    軍政を嫌う米国との関係がギクシャクする反面、タイは中国との緊密さを増しているが、その勢力圏に入ろうとしているわけではない、と9月19-25日号の英エコノミスト誌が述べています。

     すなわち、プラユット政権は、新憲法草案を却下し、選挙を少なくとも2017年まで延期し、また、政権に批判的なジャーナリストを一時拘束するなど、独裁色を強めている。そのため、民政復帰を求める米国との関係は悪化し、他方、中国との関係はかつてないほど良好だ。

    iStockより

    対等でなかったタイ-米関係

     これを、アジアにおける長期の不可逆的傾向と見る向きもある。「タイは半世紀間、米国の影響下にあったが、今や中国の勢力圏に入りつつある」というのだ。

     例えば、米国は軍事援助を一部減らし、合同軍事演習や公式訪問を見合わせた。また、今年、米国務省はタイを人身売買で最悪のカテゴリーに分類した。

     米国とタイは昔から緊密な関係にあったが、それは対等なものではなく、タイは下に見られていると度々感じてきた。特に1997年のアジア金融危機の際に呑まされた厳しい処方箋と説教のことは今も恨みに思っている。

     他方、当時早々に支援を提示してくれ、タイ内政への不介入姿勢を保つ中国には感謝の念を抱いている。加えて、中国は最大の貿易相手国であり、観光でも最大の顧客だ。中国が計画している雲南省とバンコク間の高速鉄道が出来れば、関係はさらに強化されよう。

     マレー半島のクラ地峡に運河を掘る話もある。もし実現すれば、中国はマラッカ海峡に依存しなくてもすみ、非常な戦略的恩恵を受けるだろう。

     タイは今や中国の支配下にあるとの認識は、7月にタイが中国から逃れて来たウイグル人の強制送還を決めた時にも言われた。

     しかし、タイの中国との緊密な関係は、今に始まったわけではなく、軍事政権を批判する西側に反発したからでもない。タイは、中国がタイの共産主義勢力への支援を止めた1970年代以来、おそらく東南アジアで最も中国と緊密な関係にある。両国の間に領土問題はなく、中国系タイ人を巡る軋轢もない。中国の革命後、タイが米国の同盟国になり、両国が対立した時期はむしろ例外だった。

    と言っても、タイは中国の属国になろうとしているのではない。世論はそれを支持しないだろう。ウイグル人の強制送還はタイでも批判され、タイ海軍の中国製潜水艦購入計画にも強い反対がある。逆に、タイ支配層の一部は米国との関係を強く支持している。今週、ある閣僚は、タイのTPP参加の意志を改めて表明した。

     要するに、米中は影響力を競っているが、まだ冷戦にはなっていない。一方の勢力圏に入れば、他方の勢力圏から追い出されるわけではない。それに、中国の影響力拡大で、米国の友情のありがたさは増すだろう、と述べています。出 典:Economist 'Under the
    umbrella'(September 19-25 , 2015)
    https://www.economist.com/news/asia/21665016-unelected-dictatorship-thailands-government-finds-china-more-amenable-america-under


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     上記記事は、米国がタイのクーデターとその後の実質上の軍事政権に批判的なのに対し、中国との関係はかつてないほど良いが、タイの中国との密接な関係は今に始まったわけではないし、タイが中国の勢力圏に入りつつあるわけではない、と言っています。おそらく、その通りでしょう。

     タイは歴史的に外交のバランス感覚に長け、19世紀後半ビルマまで東進してきた大英帝国、インドシナを植民地化したフランスを相手に、領土で一定の譲歩をしながら東南アジアで唯一独立を維持しました。

     機を見るのも敏で、太平洋戦争で戦況が日本に不利になると、自由タイ運動を起こして日本に抵抗し、日本の同盟国でありながら、敗戦国扱いされませんでした。

     ベトナム戦争中は、米国に全面協力しながら、戦後はいち早く米国との軍事関係を整理しています。

     このようなタイが、中国の支配下に入ることは考えられません。経済的、軍事的に圧倒的に強い中国と、東南アジアで最も緊密と言われる関係を保ちながら、あるいは日本や米国との関係を推進し、あるいはASEAN諸国との協力を進めることによってバランスを取り、中国に飲み込まれないよう配慮して行くのでしょう。

     なお1997年のアジア危機に関する記述は正確ではありません。タイは金融危機に際し、米国から呑まされた厳しい処方箋と説教を今も恨んでいるとありますが、処方箋を与えたのはIMFで、米国は直接には何もしませんでした。当時、記者会見で、米国は何もしていないのではないかと質問された駐タイ米国大使が、米国は世界一の国内市場をタイに開放しており、また高等教育の機会を提供してタイに貢献している、と答えていましたが、これは図らずもアジア危機に対しては何もしていないことを告白したも同然でした。

     また、中国が危機に際し早々に支援を提示したと言っていますが、中国は何もしていません。全面的支援の手を差し伸べたのは日本で、日本は「困ったときの真の友人」としてタイの官民から深謝されました。

    ドゥテルテとタクシンは似ているのか? 

    旧体制に挑むのはまともな民主主義ではなくポピュリズム

    9月14日付の英エコノミスト誌は、ドゥテルテ比大統領とタクシン元タイ首相を比較して類似するところがあるとし、両者とも貧困者の代弁者としてポピュリズムに訴えて既存の体制に挑戦したが、貧困と不平等の上に支配層が君臨する構造に変化は見えないと言っています。論旨は以下の通りです。

    (iStock.com/Artystarty/tkacchuk)

     定期的に選挙が行われ、改革も盛んに語られるが、フィリピンの富の4分3は未だに有力40家族が握り、貧困も深く根付いたままだ。

     もっとも固定した支配層が深刻な不平等の上に君臨するのはフィリピンだけではない。東南アジアの大半の国は、単一政党支配や政治的動揺によって荒廃している。その好例は、王室が支配層に繰られるタイだ。12回の軍事クーデターの目的も、既存の権力構造の維持や保守的思想の醸成だった。

     実際、ドゥテルテは自国の歴代大統領よりタクシン元タイ首相と共通する点が多い。2001年、タクシンは、タイ北部の貧しい農民と自らを重ね合わせることで権力の座に就いた。支配層は彼が人民の側について王室に取って代わろうとしていると恐れ、2006年に彼を失脚させた。一方、ドゥテルテも土地持ちの政治エリートと公然と対決した。

     また、両人とも左翼人士に惹かれてきた。タクシンの顧問には、1976年の軍による学生虐殺事件の生き残りで、その後、共産党反政府勢力に加わった者がおり、ドゥテルテの閣僚には共産党ゲリラだった神父がいる。

     また、ドゥテルテは南部で反政府イスラム勢力との戦いに巻き込まれており、特に軍は、5月にイスラム国系勢力に占拠されたマラウィ市を奪還しようとしている。タクシンもタイ南部で反政府イスラム勢力に対して強硬な方法をとった。

     偶然にも、ドゥテルテの凄惨な麻薬撲滅の戦いのモデルは、2003年にタクシンが行った覚せい剤使用に対する戦いだ。この時は3カ月で2800人が警察や自警団に殺された。ドゥテルテの麻薬撲滅の闘いでは警官や殺し屋によって7000人以上が即決処刑され、犠牲者の多くは小物の薬物使用者か全くの無実だった。

     しかし、タクシンにしても、自分の支持者たちの運命よりも、数十億ドル規模の事業の推進を含む権力追求し、つまり私利私欲が優先するのは明らかだ。妹のインラックの8月の突然の国外逃亡でさえ、財力と野心を持つタクシン兄妹の終わりを告げるものではないかもしれない。

     一方、ドゥテルテも、オリガルヒは脅かされたと思えば逆襲して来るとわかっている筈で、娘と息子をダバオの要職に就け、自らの政治基盤を強化してきた。また、将来、彼はミンダナオで布告したような戒厳令を使って鉄壁の権力基盤を築くのではないかとの見方もある。タイと同様、フィリピンでも旧体制に挑戦するのはまともな民主主義ではなく、ポピュリズムだ。

    定期的に選挙が行われても、固定した支配層が深刻な貧困と不平等の上に君臨する事情は、フィリピンでもタイでも同じです。時として、支配層に対する怒りに火をつけて政権を奪取するポピュリストが現れても、この事情は変わりません。ドゥテルテもタクシンもこのポピュリストの手段を弄して政権を得ました。タクシン一派は苦しい状況にありますが、彼等の影響力は終わりではないかも知れません。ドゥテルテも逆襲されればやり返す準備は怠っていません。つまり、伝統的支配層に挑むのは「まともな民主主義ではなく、ポピュリズムだ」という事情はいずこも同じです。判りづらいですが、以上がこの記事の論旨のようです。

     そういう意味でドゥテルテとタクシンの類似性をいうのは一応納得出来ます。しかし、両名とも共産主義者との係りがある、両名ともイスラム勢力に強硬な姿勢を維持している、両名とも麻薬撲滅のために超法規的手段を用いることに躊躇しない、といった指摘は、事の性質や背景を無視した議論で、類似性をいうことにあまり意味はありません。

     恐らく、タクシンがドゥテルテと違うことは、タクシンはエリートであることです。タイの政治劇は、タクシン一派という新興勢力が伝統的支配層に挑んだ権力闘争であり、その過程で、農民の債務の支払い猶予、農村に対する低利融資、安価な医療制度などのポピュリスト的政策で地方の農民層や低所得者層を支持基盤に取り込みました。上記記事は、彼が「人民の側について王室に取って代わろうとした」と書いていますが、むしろ王室の一部を取り込もうとしたのだと思います。このような動きに危機感を覚えた伝統的支配層が反撃に出てクーデターで彼を追放するに至ったということです。

    ▲「WEDGE Infinity」引用

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     23日、タイ下院総選挙を翌日に控え、候補者のポスターが並ぶバンコク中心部を歩く人々(共同)

     【バンコク共同】タイで24日、軍事政権から約5年ぶりに民政移管するための下院総選挙が実施される。軍が政治への介入を色濃く続けることになるのか、真に民主的な政権が樹立されるのか。軍政後の国の在り方に審判が下される。

     首都バンコクでは23日、主要政党の首相候補や幹部らが最後の訴えを行った。

     下院総選挙は、地方農民など貧困層が基盤のタクシン元首相派の「タイ貢献党」、反タクシン派の「民主党」、軍による支配の継続を狙う親軍政の「国民国家の力党」による三つどもえの構図。いずれも過半数には達しない見込みで、少数政党も含めた選挙後の連立工作が政権の形を決めそうだ。